全国裂織ニュース21号
 

「いのち」を循環させる織物
佐伯 剛

 「裂織」、畏るべし。
 単なるリサイクルというより、「いのち」を循環させるこの織物は、昔の日本では当たり前のように行われていた。一枚の布を通して、モノを気遣う優しさと、どんなに困難な生活環境でも明るく生きていく逞しさが育まれていた。家族や他者に対する思いやりは、人の手から人の手へと「いのち」を循環させていこうとする感受性のなかで、当たり前のように養われていた。
 布には、それを使用してきた人々の様々な記憶が秘められている。その記憶が、手触りとか風合いとなって、新しく織る人に伝えられる。そして、その人にも、布に対する慈しみと、その人ならではの人生がある。
 裂織を織る人のほとんどが主婦だ。女性は、もともと男性よりも肌感覚が優れている。主婦業を一心に勤めるというのは、実生活のなかで頭でっかちにならず、優れた肌感覚をフルに発揮して生きていくことだろう。その優れた肌感覚によって、自分を取り囲む自然界や人間関係から様々な機微を吸収して、主婦は、どんどんパワーアップしていく。

 「いのち」のリズム
 彼女たちは、そのように蓄えた力を一心に織るという行為に向ける。私が展覧会場で出会ったのは、50代〜70代が多く、なかには80代もいた。人生に一段落して始めたといっても、20年、30年もの長きにわたり、裂織に魅せられ、全身全霊で取り組んでいる。だから上達も素晴らしい。何よりも、布の「いのち」と自分の「いのち」が共振してつくり出される作品によって、自分の「いのち」のリズムが整えられ、強められている。だから、どの人も、とても若く見えて、生き生きとして、元気いっぱいだ。
 年齢を重ねながら「いのち」を深めていった人たちの心が、古い布に秘められた見知らぬ人の記憶と共振して新しいイメージを紡ぎ出す。長い間、大切に使われてきた布だからこそ生じる味わいが、今この瞬間を生きる人の熟練の手によって引き出される。そのように布を介した出会いは偶然であるが、そこから生じるイメージは必然になる。
 機械ではなく手仕事の機織りは、身体に潜む「いのち」のリズムで織り込んでいく。そのリズムが、糸の選択に伝わり、イメージを生み出す波長となり、強弱の加減となる。それゆえ、そこから生まれてくる美しい図柄は、それを見る人の身体に宿る「いのち」のリズムと呼応するものがある。
 そうして織り込まれた「いのち」の形は、頭でっかちになって消耗している現代人の「心」に、大切な気づきを与える可能性があるように私は思う。
 人間という生物は、食べて寝て生きるだけでは物足らないものを感じ、自分が生きていることの手応えや世界の機微をより深く味わいたいという心の欲求があるが、現実を生きていくための様々な約束事に忙殺され、その欲求を押し殺していることが多い。すなわち、自分の心を欺いて生きることになる。そうしたことが続くと、知らず知らず心が歪み、その歪みが、生きるリズムを損なっていく。

「いのち」の機微を感じ取る感受性
 「芸術」というのは、本来、そうした人間の心の欲求をうまく調整するものであり、家や宗教施設など暮らしの傍に置かれ、人間の心を下支えするものであった。「芸術」とは、ガラスケースの中で管理されて専門家の言葉で権威付けされるべきものではなかったのだ。
 芸術を美術館でかしこまって鑑賞する風潮は、さほど古くはなく、1789年のフランス革命後、ルーブル美術館で始まったと考えられている。
 それ以前の芸術は、日常生活や信仰と深く関係のある品々のなかに存在していた。そして、人々は、日常的にそうした物に触れ、心の安定した生活を送っていた。どんな人間でも世俗の汚れにまみれることがあるが、それらを拭い去ってくれる物が身の周りにあることで、心は豊かになり、心が豊かだからこそ人間は幸福を感じることができたのだ。
 幸福よりも惨めさをつのらせ、しばし人間生活を破滅に導く自己顕示欲に基く競争と過剰消費が蔓延する現代社会に一番欠けているのは、心の安定であり、生活の味わいであり、つながりの深さであり、物を慈しむことだろう。それらを総合して、「いのち」の機微を感じ取る感受性を、現代人は少しずつ失っている。
 裂織は、そのように人間が見失った感覚を取り戻す力がある。裂織は、私たちの生活に根づいたところで、「いのち」のつながりと、「いのち」の深みを感じさせてくれる。
 見たり触れたりすることで世界の奥行きや機微を感じ取り、関係性を慈しみ、心の安定を取り戻す「芸術」の力。裂織は、21世紀に必要な芸術の一つの型になると私は思う。

    
佐伯 剛氏

                      (「風の旅人」編集長)