娘と二人展
10月中旬、栃木県益子町の林に建つ自宅を会場にして、善林ひろみさんは、帽子作家として活動する娘の英恵さんと「親子2人展」を開催した。分野が異なるとはいえ、母と娘の2人展ができることは、なんと素晴らしいことだろう。古くから陶芸の里として知られている益子で織りの活動をすることは、なんと恵まれていることだろう。そんな事情を知りたくて、今回の訪問となった。
夫と切り拓いた終の棲家
ひろみさんは、4年前から益子に住んでいる。山林に囲まれた素晴らしい環境にある住居は、空間を贅沢にとったデザインだ。基本設計は、ご夫婦で考え抜いたものだという。祖母の出身地に近く親戚が多いし、土地勘があった。夫の明治(めいじ)さんの退職5年前から、益子付近に土地探しをした。購入後2年間かけて、山林を切り拓いた。傾斜地をどう切りひらくか。高低を測り、それを活かしたアプローチと住居の構え方を決めた。これら全部を自分たちでした。手作り精神旺盛なご夫婦だ。それがひろみさんの織りにも、英恵さんの帽子作りにも一貫している。

裏庭から見た善林さんのお宅。いちばん左の一角が織り工房。
自分だけの世界を持つ
ここが、25年間のキャリアを持つ織作家としてのひろみさんの創作の拠点であり、作品を披露する場でもある。彼女は、夫の仕事の関係で、青森に住んだ。そこで2人の娘が誕生したが、当時は専業主婦だった。やがて京都府下に住まいが変わる。夫は畜産分野を専門としていて、牧場に住んでいた。「牧場ですから、どうしても人里離れた土地に住むことになります。京都に転勤したときの宿舎の前には、緬羊がいましたよ」と、ひとしきり、その頃の想い出に、話が弾む。ひろみさんにとって、京都府下の暮らしは人生の転期になった。自然に囲まれた環境は、育児には恵まれた。だが、仕事で家を留守にする時間が多い明治さんには、気懸かりなことがあった。妻が娘だけを相手にする生活を、なんとかしなければならないと・・・。「なにか、自分だけの世界を持つといいよ」。京都の近くだから、織がいいと、丹後木綿を織る勉強を始めた。
研鑽を積んだ京都時代
先生は河口三千子さん。丹波木綿で著名な染織作家だった。河口さんは生前、失われゆく生活文化を惜しんで、庶民の衣類を収集。そのコレクションを、そっくり福知山市へ寄付した。それを受けた福知山市では、「福知山市丹波生活衣館」を創立し、公開している。
ひろみさんは、師の勧めで日本工芸会研究会員になる。同工芸会近畿支部の織物研究会では、京都在住の多くの人間国宝の方々の指導を受けた。やがて、室町の織問屋の展示会に、着尺を出品販売するようになる。こうして、織りに励む生活が軌道に乗っていく。折りにふれて、川島テキスタイルスクールでも受講。26年半の京都の生活で、ひろみさんは織作家になった。裂織には当初から関心があり、京都の友人から、沢山の着物をいただいたのがきっかけで、始めている。
伴侶を思い遣る夫の存在。地の利を活かした自分の生き甲斐探しと精神的な自立。そして女性の仕事としての織りの伝統。それらが絶妙に組み合わさって、現在のひろみさんがある。

15年愛用の機で
工房には、2代目の15年愛用の機がある。西陣織の機が原型だが、自分の使い勝手に合うよう、何度も注文して改良してもらったものだ。
綿花と紡いだ綿糸、織り貯めた着尺の数々、裂織布を見ながら、何度も感嘆の声をあげた。織り上げた裂織布を使い、益子の友人・知人の注文に応じて、ベストやジャケットの仕立てもする。「日に4時間は工房にいます。夫が留守ですと、1日中ということもありますけれど・・・」。廊下に飾られたタペストリーは、公募展入選の作品で、場所を得て輝いている。テーブル・センターやクッションなどのインテリアも、楽しんで織った裂織だ。
妻の人生設計に方向を与えた夫。終の棲家の実現に長い時間をかけて丹誠込めた夫婦。ひろみさんを裂織人として訪ねたことが、期せずして、明治さんの人柄をクローズアップすることにもなった。織りを通して、素晴らしい夫婦と出会えた1日だった。
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