裂織人を訪ねて・・・第8回 (06年9月12日訪問)

「型破りの教師が裂織作家に」

小 林 サ ダ さ ん
(岐 阜 県 恵 那 市)

訪問者 深堀 習、飯泉美耶子
訪問記 飯泉美耶子

 小林サダさんの数々の作品が並ぶ展示室。画面に写っているのは一部。画面左の壁にそっても、多数の作品が展示されている。恵那市の里山を登った高台にある『奥山足手織り工房』の一室である。

 
 第一回裂織フェア(04年8月)のファッション・ショーの先陣を切って登場した小林サダさん
 ファッション・ショーの牽引役

 2006年8月下旬の裂織フェア。ファッション・ショーを期待する人々が会場を埋めた。開始の音楽が鳴り響き、先陣を切って、小林サダさんが颯爽と登場した。「ああ。あのときもそうだった・・・」と、ちょうど2年前の出来事を、感慨深く思い出した。第1回裂織フェア(2004年8月)のファッション・ショー。その前日のリハーサル風景。初めてモデルになる出場者は、緊張でぎこちなく、慣れない仕草にそろそろ疲れを滲ませていた。そんな空気が漂う中で、3回目のリハ−サルが始まろうとしていた。「主人がね、”女は色気”と言うのよ。でも、”女は度胸”で、みんな頑張りましょう」。勇気づけるサダさんの声が響き、「大丈夫、ついておいで」と言わんばかりに、先頭にたって歩き出した。そして、ファッション・ショー本番には、出場者の見違える姿があった。早馬灯のように思い起こされる場面が、目の前の出場者と重なった。

 裂織までの経歴

 サダさんの青春は、第2次世界大戦前後のたいへんな時代で、終戦の年に女学校を卒業した。戦後は小学校の教師としての35年間が、夢中で過ぎた。かなり型破りな先生だったらしい。「私ね、ピアノが弾けないのよ。音楽の時間には、ヤカンや缶々、洗面器など、叩けば音の出るものを使って、生徒に器楽合奏をさせたの。そのうちに研修に行って勉強し、それがきっかけになって”器楽部”ができたの。実験校だと、近隣の先生の公開授業があるでしょ。手を挙げないのに、いつも”やりなさい”って、言われてね。型にはまったことが嫌い。楽しい授業がいちばんと思っているから、生徒が授業に乗ってくれるのが、嬉しかった・・・」。次々に語られる教師生活は、充実していた。初めて赴任した蛭川小学校の13年間の在職中に、後に夫となる皋明(こうめい)さんと出会い、とりわけ思い出が深い。公私に亘って、よき時代だったと懐かしげに語る。定年まであと5年の暮、夫が遠くに転勤するらしいと聞く。「家事をしにゃならんでしょ。皋明さん、ようできないし、ついていくつもりで、退職届を出したのよ」。だが、翌春決まった任地は、自宅から通える土地だった。好きな教師を全うしたかったから、こんなかたちで退職するのは、複雑な気持ちもあった。その一方、「展覧会にも出かけられるし、旅もできる。さあ、これからは自由な時間に、自由なことができる」と、嬉しくもあった。

 ところが、退職した翌日には、皋明さんの勧める織りを始めている。「夫の母親が、家族の着るものを織っていたので、織りをする女性に、理想像を見ていたらしいのよ。それで織りをやれって。退職して時間が空くと、のんびりしてしまってダメだと言うのね」。それが半分の動機で、半分は自分の意志で、近所の82歳のおばあ様に織りの手ほどきを受け始めた。厳しい先生で「1日に1反を織りなさい」と、課題を与えられた。ウール素材のチャンカラ(カランコ)だから、早く織ることはできたが、負けん気のサダさんは意地になって、必死に織った。100反ほどは織ったという。その後、滝口平八郎氏から絹織りを学んで紬織りに励み、10年の歳月がアッという間に過ぎた。

 そんなある日、公文知洋子さんの裂織の個展を観た。それまで、裂織はボロ織りと思っていたのに、公文さんの裂織は新しいアートとして在る。そのときの衝撃と感動が、サダさんの自由奔放な裂織の出発点になった。第1回全国裂織展(2002年9月)で大賞を受賞したタペストリー「石垣田んぼの風景」は、再認識した裂織の記念すべき一里塚となったものである。故郷の木曽谷の暮らしを表現した作品に寄せた言葉に「ひとつの裂織に全力投球できたひとときが、楽しい日々でした」とある。この作品を織っていた間は工房にこもり、夫さえ覗くことを一切拒否して、”おつう”になったと笑う。大胆な表現ができる裂織は、とても楽しい。どう表現するか。なにか新しい織り方で表現の幅が広がらないか。いろいろと試みながら、機に向かうことができる。サダさんの裂織への気迫が、漂ってくる。

 山の工房を拠点にした日常

 サダさんに織りをすすめた皋明さんは、退職後、陶芸を始めた。周りに気兼ねなく、織りと陶芸をする工房をつくりたいと、1989年(平成元年)、恵那峡の里山に抱かれた奧山足(おくやまあし)に、山を購入した。九十九折りの急な斜面を車で上っていくと、眼下に恵那の眺望が広がる高台に着く。工房前の池に、ピンクの睡蓮の花が浮かび、アメンボーがスケートをしている。池に面した建物の手前が「奥山足手織り工房」、奧が陶芸の「河童工房」。皋明さんは”かっぱ村”の村長さんでもある。山の下にある自宅から、工房には毎日、車で出かけてくる。「午前中に2時間。昼寝をして、その後また織りをして。1年365日、日に5時間前後、織りをしているかしらね」と、言う。

「奥山足手織り工房」(手前)と「河童工房」(奥)


 工房に入って、さらに驚く。広い。よろけ織りをしている機、タペストリーを織る機、幅の狭いポーチ専用の機など、織り機が5台。2台は義母から受け継いだ。ドラム整経器、カッター用の道具、膨大な量の糸や布の材料、ミシンなどが、所狭しと並んでいる。工房の天井にぶら下がっている、羽を広げる白い鶴のフィギュア。”おつう”に捧げた皋明さんの作品で、そのユーモアに感心する。隣室は個展会場を思わせる作品の展示室。入口側には、茶室と居間がある。これらはサダさんの縄張りである。奧の陶芸の工房には、大きな電気炉を備え、土の塊や釉薬などが溢れている。隣室には、さまざまな陶器類と、艶めかしく人を食ったような、いろんな表情の河童が並んでいる。

 夫妻は、なんとも贅沢な羨ましい環境で、悠々自適の第二の人生を繰り広げている。

織り機の並ぶ工房

 取材をしている間に、スーッと消えてしまった夫を評して、サダさんが言う。「あの人。私がしゃべくりまくっているので、呆れてしまっているのよ。いつもそうだけれど・・・」。寡黙な印象の皋明さんだが、「お釈迦様の掌にあるのは、どちらだろう?」と、いらぬ想像を働かせ、夫婦の絶妙な姿を垣間見た感じがした。

 サダさん夫妻は、2人の孫も含む息子一家の三世代で暮らしている。「山の工房で、好きな時間を過ごすのは、家族全員にとっても、いいと感じますよ。お互いに仲良くするのには、遠慮しないで過ごす時間が大事ですからね」。そう語るサダさんの言葉を聞きながら、裂織と陶芸が、家族円満の充実した日常になっていることを、改めて思った。

”子どもたち”との「裂織五人展」

 この工房を拠点にして、サダさんは裂織の弟子を育てている。まだ、山の工房がなかった頃から、裂織をしたいという人に、手ほどきをしてきた。「子どもたち、すごいのよ。自分の作品を持ち寄って見せあうこともあるのだけれど、いつのまにか、立派な作品を創っている。その素晴らしさに、私は圧倒されてしまったの。これは、何とか周囲の人に見せにゃならんと思って、”裂織五人展”を開くことにした」。

 サダさんはグズグズ考える暇があるなら、行動を起こす。そんな前向きの姿勢で、今までやって来た。学校の教師を退いた後も、人を育てる生活がある。そして、織りを教えた人の成長を、手放しで喜んでいる。

 今回の取材には、裂織五人展に参加する半坂八代美さんの工房にも、案内された。サダさんが、”子どもたち”と呼ぶ人たちの最年少だが、それでも60代である。サダさんは、”子どもたち”が創り出す見事な作品を愛おしみながら、共に裂織を楽しんでいる。
 ”子どもたち”のひとり、半坂さん(中央)のお宅で、作品を鑑賞するみなさん。

 サダさんの屈託のない、太陽のような笑顔を眺めながら、根っからの教育者だと思った。蒔かれた一粒の種が新しい芽となって育っている。裂織の歴史の現場に、触れた感じもした。

 退職後に始めた織りは20数年。紡ぎを学んだ縁で、2005年に”岐阜シルクの会の伝承士”に認定された。古いボロ織りの価値観を維持している地域で、新しい方向を模索するサダさんの裂織が認められた。その意義は大きい。

 楽しくて、面白くて、刺激に満ちた訪問だった。

(撮影 飯 泉 仁)

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