裂織人を訪ねて・・・第1回 (05年6月23日)

”華 織 ” の 世 界 
山本雅子さん (日立市大久保町)

訪問者 深堀 習、飯泉美耶子
訪問記 飯泉美耶子

優しさが・・・ 「山本さんの裂織作品は、優しい雰囲気に溢れているし、色遣いが素晴らしい」。彼女を知るだれもが、そう言う。どこにその秘密があるのだろう。「裂織人」の最初に登場を願ったのは、そんな理由を知りたかったからだ。彼女の人柄が作風にあらわれているのだが、そこには、夫婦の支え合いの物語があった。

 上野から常磐線の特急で1時間半ばかり。常陸多賀駅で降りて西へ向かう。日立は阿武隈山地が海岸近くまで迫っているため、市街地は南北に細く延びて広がっている。その山裾ぎりぎりにある集落が、大久保地区である。戦国時代の古い城を中心にひらけた歴史の古い村落で、山本家はその地区の旧家の一つだ。2人のお子さんは結婚して独立し、現在は、夫と2人で暮らしている。「息子がこちらに帰って、就職してくれました」と、山本家の本拠の家屋を息子一家にゆずり、すぐそばに別の家屋を新築して、住んでいる。隠居所と自称しておられるが、11年前に建てられた自宅は、この辺りでもひときわ大きく、優雅な佇まいである。

 じつはこの家を建て移り住んだころの山本家は、大変な時期を過ごしていた。夫の政行さんが、仕事の多忙とストレスが原因で、重度の喘息の発作に襲われたのだ。「何度も死ぬかと思いました。呼吸困難でチアノーゼを起こし、繰り返し入院したり・・・」と、当時を振り返る。

 政行さんは55歳を迎えて、早期定年制度を利用して会社を退職し、療養生活に入った。雅子さんは、入退院を繰り返し、いつ発作が起きるともわからない夫の看病に励んだ。なんとか元気になって欲しい、身体を労りながら、大好きな木工の作業をすることで、元気を取り戻せるのではないかと、気を遣った。元気回復の鍵となったのが、雅子さんのために政行さんが織機を自作することだった。


夫の手作りの織機 もともと政行さんは、定年を迎えたら建具職人のもとに弟子入りし、木工を趣味にしたいと話していた。納屋にあった荷馬車を解体し、その廃材を活用して、織機の製作をはじめた。図面を引き、全てを手仕事で完成した織機は、欅の肌触りがつややかで、しっかりした出来だ。よそにあるもののコピーではなく、織りの原理を理解して、随所に工夫を凝らした跡が見える。その素晴らしさに、しばしみとれた。


 「夫が作ってくれた機を使うことで、織りにいっそうの励みができました。作品が出来上がるたびに、”ほら、こんなにきれいなのが出来たわよ”と夫に見せると、とても喜んでくれたのです」と、雅子さんは言う。織機を使いながら、「ここをこうしたら、もっと使いやすい」と注文をつけるたびに、改良をしてくれた。織りのための小道具も、雅子さんが使いやすいように作ってくれた。竹で作られた”ひ”の、糸を巻く部分の曲線の美しさ。糸巻きの小道具の思いがけない形。雅子さんの織機のまわりにある道具のほとんどは、政行さんが製作している。織機を作ることで織りの仕組みについては雅子さん以上に通じたから、逆に、「4枚そうこう機では、こうしたら、こんな織りになるはずだ」と、直感タイプの雅子さんに教えるまでになったという。

 そんな夫婦の共同作業が、あの山本さんのすばらしい織りを生み出し、その織りを生み出す脇役を果たすことが、政行さんの健康の回復をもたらしたのである。

裂織布との出会いが 雅子さんが裂織に興味をもったのは、骨董屋で見た古い裂織布がすばらしいと感じたことがはじまりだった。実際に織りはじめたのは、6年前だ。完成した織機第1号を使うことで、夫の病気をいたわりながら、雅子さんの裂織が本格化していく。そして、とうとう第2回全国裂織公募展では、優秀賞を受賞するまでになった。

 愛用している織機の傍板の内側に、墨で「昭和23年購入(日吉)、平成11年製作(政行)」と、書かれている。日吉は政行さんの父上である。材料となった荷馬車を購入したのが、昭和23年。織機を製作したのが平成11年という記録だ。「山本家の歴史を窺わせますね」と、感慨が湧く。その後、政行さんは、雅子さんの経験にもとずいて、もっと使いやすい織機をと改良を重ね、何台も製作する。第1号織機では、金属製の”綜こう”まで作ったと聞くと、半端ではない。「あれはたいへんでしたよ。とうとう金属加工の専門家に聞きに行きましたから・・・。初めの頃は、ああして欲しい、こうして欲しいと、ずいぶん注文がありましたよ。最近はなくなりましたが・・・」と、政行さんは笑う。お互いの平穏な日常が伝わってくる。

 玄関を入ると、吹き抜けの階段の高い天井から、2枚の大きな裂織のタペストリーが架けられている。玄関のタタキには、荷馬車の馬を繋ぐ部分の、軸木を利用した椅子が置かれている。曲線が素敵なインテリアだ。居間の広い縁側には、政行さんが製作した織機が1台ある。1年前まで義母の部屋だったという奥の10畳が、雅子さんの織りの部屋だ。ここには、2台の織機が向かい合って置かれている。今夏の展覧会のブース用にと、製作途中の糸が掛かっている。山本さん特有の”華織”(注)と名付けた模様が、浮かび上がっている。彼女の裂織は、優しく、優しく、さまざまな思いを込めて打ち込む”おさ”から生まれているのだ。


(注)”華織”は、山本さんが名付けた裂織布である。名付け親の気持ちを、次のように語っている。「もしかして、ゴミ屋さんに出されてしまったかも知れない布。焼却されてしまうかも知れない布。捨てられてしまう運命の布達を、私が出会ったことで、もう1度、美しい花・華として咲かせてあげたい。咲かせてあげるよ。そんな気持ちで、私がつけた裂織布なんですよ」。

 また、”紙織”の技法にも特色がある。薄い布地を1センチメートル幅ほどに切って織り、さらに1段毎に、布を押さえるように糸を織り込む。全体としては、ごく軽やかに織っていく。布本来の模様をそのまま活かす技法で、山本さん作のポンチョに多用されている。面白いし、楽しい。


布が語りかけてくる 織りはデザイン画など描かずに、イメージだけで織っていくという。雅子さんは言う。「織機に向かっているとき、幼かったころ、広い野原で縄跳びをする情景が浮かんできます。お友達があちらからも、こちらからも走ってきて、”入れて、入れて・・・”と、楽しんだ想い出です。そんな気持ちが、裂いた布が、”入れて、入れて”と語りかけてくるのと重なるんですよ。だから、裂織はとても楽しくて、仕方がないんですよ」。

 ときには、夜中に目覚めたときに「あの布を使おう」と、閃くのだという。そのときには起き出して、織りの部屋に入る。その布を引っ張り出して並べて眠りにつき、翌日織る。日中は家事が多いので、週に2回ほど、政行さんが早くやすまれた後、夜9時頃から11時半位まで、集中して織りをする時間にしている。

 部屋には、たくさんの作品が並んでいる。それらを眺めながら、優しい雰囲気の織りの謎が、解けていく。3時間余り、ご夫婦の話に耳を傾けながら、2人で楽しむ裂織りの世界を感じた。


訪問の後日談

 山本家を訪れた日、織機には糸が張られ、途中まで作業が進んでいた。その2日後、山本さんから、弾んだ声の電話があった。「”花火”と名付けた裂織布が、出来上がったのですよ。今まで織った中で、いちばん気に入ったものが出来ました。これで3枚のポンチョを作るのですが、ハサミを入れるのが、どうしても忍びないのです。1枚の織布として、記念に写真を撮ってから切りたいのですが・・・」。山本家への訪問のさい、カメラマンとして、夫が同行した。カメラの腕を見こんで、夫に撮ってほしいというのだ。

 そんな話が発展して、茨城県庁前の御影石の石組みを背景に、裂織布「花火」の撮影をした。裂織布も、それをいとおしそうに纏った山本さんも、なかなかのものだった。




(写真)飯泉 仁

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